インドネシアのゴミ処理事情とは

  『ゴミが作り出す社会 現代インドネシアの廃棄物処理の民族誌』という本を書店で見かけて読んでみた。

 日本でもゴミ問題は常に燻っていて定期的に社会問題となってしまう。ゴミは我々が生活してる以上どうしても排出されるものであるが、かといってゴミ処理の過程からは目を背けがちである。いわゆるNIMBY(not in my back yard:ウチの裏庭ではやめてほしい)施設の代表とも言えるゴミ処理を、インドネシアのスラバヤで観察した記録が本書である。

 序章ではゴミとは何か、について触れている。本書の指摘を受けて気づいたことだが、「ゴミ」というのは主観的な表現である。捨てるべきか再利用すべきかは、同じものであっても時と場合によって大きく運命が分かれる。価値がつくゴミは引き取る業者がいる。問題は処分に費用がかかるゴミをどうするか、である。また、ゴミ処理の歴史と社会における評価の変遷を扱っている。

 一章以降ではゴミ処理の実態をいくつかの項目に分けて紹介している。一章ではごみ収集のあらましを、二章では今世紀初頭の「ゴミの洪水」を、三章では現在までのゴミ処理の変遷を、四章と五章では住民参加を取り上げている。

 現代の日本に住んでいると、ゴミの焼却は当たり前のことであるが、世界ではゴミを焼却処分しているのはじつは少数派らしく、全てのゴミをそのまま埋め立てることが多いらしい。ゴミを埋めて数年放置しておくと発酵等でガスが発生し、そのガスが自然に燃えてだんだんゴミのかさが減っていくそう。東京では戦後の夢の島でこの処理が行われ、対岸に無数のハエが飛来するという事態に陥ったという。スラバヤでもガスが燃えて発生した煙が付近の住民の健康を害し、ゴミの搬入中止を訴える抗議活動によりごみ収集が停滞し、スラバヤ市内にゴミが滞留・腐敗する「ゴミの洪水」が発生し、市民生活に大きな影響がでた。

 興味深いのは、これ以外にもゴミの焼却処分によって周辺住民への健康被害が発生したこともあり、スラバヤではゴミ焼却に対する忌避感が強いのだそうだ。現地ではゴミの水分量を調査し、スラバヤのゴミは焼却に向かないという「調査」を繰り返し、ゴミは燃やすべきでないという結論を受け継いでいるという。

 ゴミの洪水以降、スラバヤ市は北九州市と提携してゴミ処理施設の導入を始めた。生ごみの堆肥化施設を設置し、市民へ家庭用のコンポストを普及させた。家庭用のコンポストは自治会単位での導入と普及が奏功し、現在でも使われている一方、生ごみの堆肥化施設はどうしてもゴミの分別に費用がかかり、商業化がうまくいかず日本の業者は撤退を余儀なくされた。

 ゴミの埋立地では容量が逼迫していたが、こちらは「ガス化」という新たな技術を導入し、問題を解決したらしい。ゴミの焼却と言ってしまうと角が立つので言い換えただけな気がするけど、それはさておき。

 インドネシアでは自治会のようなものが普及しており、スラバヤでも自治体ごとにゴミ減量に取り組んでいて、毎年コンテストを開催しているとのこと。地域住民単位で切磋琢磨してゴミの減量に取り組んでいるとのこと。コンポストの作り方に創意工夫を凝らし、おしゃれなコンポストを普及させているのは地元のおばちゃんたちの働きである。

 

 読んでみて一番強く感じたのは、ゴミ処理のように全ての住民の協力が必要な問題は、結局人の輪を頼って解決していくんだなぁ、だった。

 コンポストの仕様を例に挙げると、竹製のカゴを使うのは現地の人にとってみすぼらしく感じられるそうで、カラフルなプラスチック製のものが好まれるのだとか。ゴミの焼却処理の忌避もコンポストの素材も、地域住民に受け入れられやすい方法を採用する方が普及が容易になる。ゴミ処理はどうしても忌避感を覚えやすいので、「イケてる」「おしゃれだ」という印象をだいじにすると受け入れられやすい。

 ゴミ処理はNIMBYなのでどうしても手間と費用から目を背けがちになる。スラバヤのゴミ処理においても、日本のように費用をかければ解決する問題がたくさんあるように思えた。とはいえ市からの支出が渋いこともあり、限られた予算でどうにかやりくりしている……そのやりくりの人間模様がこの本のメインテーマといえよう。全員が納得できる税金の配分は不可能なのでどうにか折り合いをつけるとしわ寄せがいく。スラバヤではゴミ処理に使われる税金は多くはないようで、住民の負担と努力で最適化を図っている奮闘の過程は、身の回りで思いだされるエピソードも多かったし、とても読み応えがあった。

 

 

 

『ゴミが作り出す社会 現代インドネシアの廃棄物処理の民族誌』吉田航太 著

東京大学出版会(2025) ISBN 978−4−13−036292−4

timeout marketに行ってみた話

 昨年開業した大阪梅田の一等地にあるグラングリーン大阪は行き交う人が次第に増えて連日賑わっている。そんなグラングリーンの一角に、残念なエリアがあるらしい。

news.yahoo.co.jp

 timeout marketというらしい。この記事が出る少し前から、twitter(現X)などで惨状が話題になっていた。曰く、「高くてガラガラだ」と。ちょっと気になって通りすがりにのぞいてみたところ、確かに高くてガラガラだった。プロ目線の記事は上記のリンクに任せるとして、気になったことをメモしておきたい。

 

 ひとことでいえば、全体的にチグハグ。暗めでシックな内装と、開放感があるオープンテーブルが絶望的にミスマッチしてる上に、単価が高い。高級感と開放感の両立は難しいのだろうけど、両者の悪いとこどりになっていて、高価なのに落ち着かない感じになっている。

 

 暗めでシックな、光量を抑えた内装はそれ単体ではおかしなことではない。ちょっとオシャレな感じになっている。価格が高いのは、メニューを見る限り高級な食材を使った、ちょっとしたハレの日の料理だと思えば納得はいく。体感では万博(夢洲)と同程度の価格帯に思えた。牛カツサンド3800円、ビール800円といったお値段で、自分へのご褒美と思えばそう高くもない。

 ただ、ここで問題となるのはフードコート、オープンシートになっている点だ。どうにも落ち着かない。店内に座席がある店舗も開放感を重視しているらしく、視線を遮るものがない。ここがいちばんチグハグなところ。多少高くてもゆっくりできるなら構わないのだけど、オープンシートではそうもいかない。椅子が高い、とか机のサイズが、とかは上記記事の分析どおりだし。そそくさと食べ終えて立ち去る形態に思える。

 なによりもこのtimeout marketにとって不幸なのは、大阪梅田という飲食店の超絶激戦区に立地していることで、どうしても周囲の飲食店街と比べられてしまうことである。高級感と開放感を求めるなら、自分なら阪急32番街を勧めたい。見晴らしのいい高層ビルの上層階にあって落ち着きのある内装にもなっている。そしてちょっと安い。強敵である。景色と味とコスパを求めるなら阪急や大丸の百貨店のレストラン街も秀逸である。

 また、黒を基調とした落ち着いた内装で賑わってるのはうめきたの先駆者、グランフロント北館のレストラン街を挙げたい。こちらはのんべぇ向けで割高感を感じる(私が毎度すごい会計を叩き出してしまう)が、認知度も高く賑わっている。ヨドバシの上にあるヨドバシダイニングもやや暗めな雰囲気だが賑わっていて、こちらはリーズナブル路線になっている。

 timeout marketが地下に位置していることが不利になっているのかとも思ったけど、ヒルトンの地下はかなりオシャレなかんじにまとまっている。地下街とシームレスにつながっているので、高級ホテルのレストラン街という枠で認識してる地元民はいないだろうけど、それでもけっこう雰囲気がいい。

 地下でがやがやしてるところ、というならお隣Lucuaの地下フロアも連日大賑わいで、行列になっているのも頻繁に見かける。ヨドバシの地下もいつも混雑している。そして、梅田の地下街といえば必ず名前が上がる大阪駅前ビルの地下街もある。梅田で一番安く飲めるところかもしれない。

 隠れ家的なエリアといえば新梅田食堂街の名前も上がる。50年前にタイムスリップしたような雰囲気だが、こちらもリーズナブルでいつも大人気である。洞窟のような薄暗くひっそりとしたところを探検しているような気分も味わえる飲食店街で、なんだかワクワクさせられる。

 阪急三番街は地下街にも関わらず水景が整備されていて地下特有の閉塞感を感じさせない。開放感と落ち着いた雰囲気を両立させるのなら水が流れるスペースを設けるのもいいだろう。

 そして、これらの地下街は都心一等地とは思えないほどリーズナブルなのである。

 

 timeout marketはここ梅田の地でなにをやりたかったのかがさっぱりわからない。フードコートの手軽さ、リーズナブルをシックな内装と強気の価格設定で台無しにしてるし、逆に高級感の方も無駄な開放的なつくりで落ち着かなさが感じられて台無しになっている。上層階に高級ホテルが入っていて、猥雑なしつらえにできなかったのかもしれないが、結果的にどっちつかずになってしまっている。

 twitterで見かけたこちらの記事に、海外のタイムアウトマーケットの様子が詳しく紹介されていた。

sydneytales.com

 とても雰囲気が良さそうで、台湾や香港、あるいはマレーシアの市場を思い起こさせる。市場の一角に飲食店街があって、新鮮な食材をその場で食べられる。現地人の生活を味わえるので、とてもワクワクさせられる。

 こういうコンセプトを目指すのなら、大阪人の生活を移植する必要があったのではなかろうか。なんならLucuaの地下街の一角を引っ張ってきてもよかった。(だとするとこの暗い感じの内装には合わないが)

 落ち着いた雰囲気を作りたいのならヒルトンや百貨店の飲食店街を真似てもよかった。現に、隣のLucua1100も元は伊勢丹で、あまりにも閑散としていてとなりのLucuaをまるパクりした過去がある。そしてそれがうまく行っていて、今ではとても賑わっている。

 

 大阪梅田には数多の飲食店街があり、それぞれ個性やカラーがあり、新参のルクアやグランフロントも「らしさ」が感じられている。その飲食店街を選ぶ動機がはっきりしている。timeout marketはオリジナリティを出そうとしすぎてダダ滑りしてしまっているのではなかろうか。

news.yahoo.co.jp

 支配人も客足の少なさには気づいているようだが、大幅なテコ入れなしにはうまくいかないだろう。高級路線かガヤガヤ路線かのどちらかだけでもはっきりさせるべき。現状では、上につらつらと並べた通り、わざわざここを選ぶ動機がない。地元民がこず閑散としていれば外国人観光客も入りづらいことだろう。

 

 素人の思いつきだし、大改装が必要にはなるが、リスボンや東南アジアの市場のアイデアを移植するとすれば、「百貨店の惣菜を食べられるフードコート」はどうだろうか。大阪でそんなことができる場所は思いつかないし、かといって市場を再現するのはコストがかかりすぎる。なにより、その「市場」が閑散としていてはどうしようもないし、かといって市場に力を入れると今度はフードコートではなくなってどっちつかずになってしまう。

 日本の百貨店に並ぶ惣菜コーナーはどれもレストランと遜色ないクオリティだし、選択肢や組み合わせの幅が無限大でワクワクする。これをその場で喰らうという体験は他では味わえないだろう。

 アジアの市場では料理持込自由の席をドリンクスタンドが管理しているところがある。食べ物は専門の屋台で買い、席料代わりに飲み物を買うシステムだ。席の管理は飲み物屋さんが担っていて、共生関係にある。これをウメキタに再現してはどうだろうか。

 

 いずれにせよ、現状では客よりスタッフが多いのが常態化しており、猛烈な家賃を想像すると早晩大幅なテコ入れは免れないだろう。隣の伊勢丹があっさりしぼんでしまったように。地上の人流はかなりのものがあり、立地を考えるとポテンシャルはとても高いはず。今後の進化に期待したい。

 

 

  おまけ

 timeout marketの場所が分かりづらいのですが、うめきたの芝生の端っこ、うめきた温泉「蓮」の地下にあります。温泉のビルを目指し、ビルのすきまのテスラを目掛けて進むと、地下への入り口が見つかるので、気になる方は探してみてくださいね

 たぶんJRうめきた地下口のあたりからも地下でつながってます。初見だと難易度高めかも(笑)

『いまだ下山せず!』の恐怖

 登山が一般的なアクティビティとなって久しい。かくいう私も、気が向けば山へ出かける。書店でも登山関連の本を見つけるとつい手に取ってしまうが、この『いまだ下山せず!』もそうして出会った一冊である。

 登山の本といえば、個別の山の紹介や総論的な登山技術の解説、あるいは個人の登山記録などが主流だ。行きたい山が決まっていればその山の本を読むし、プロ登山家のエッセイを読むのも胸が躍る。

 ところが、この本は少し趣が違う。残念ながら、山岳遭難の記録なのである。

 遭難を防ぐための教科書的な本はいくつもあり、そこからは安全のための工夫を学ぶことができる。しかし、遭難そのものの体験談となると、どうしても「運よく生還した人」の話しか残らない。

 『いまだ下山せず!』は「のらくろ岳友会」という登山同好会の記録である。正月に冬山へ向かった仲間を送り出したものの、やがて連絡が途絶える。物語は、麓で帰りを待つ会員たちの視点で展開していく。

 一般的な登山体験記であれば、著者自身が山に入った経験を鮮明に綴り、読者に山の興奮を追体験させるものだろう。ところが本書は違う。最初から麓のサポート側の視点で、仲間の足取りが追えなくなっていく不安と混乱が、じわじわと広がっていく様を描いている。

 ふだん自分が登山するときも、安全には十分注意しているつもりだ。それでも遭難事故はなくならない。自分もいつか当事者になるかもしれない——そんな考えが頭をよぎることはある。

 しかし、本書が突きつけてくるのは別の現実だ。もし自分が戻らなかったとき、麓で待つ仲間たちはどうなるのか。本書では、その姿がまざまざと描かれる。

 遭難した仲間の足跡を追うため、のらくろ岳友会のメンバーは、同じ時期にその山に入った登山者を訪ねて全国を飛び回る。わずかな証言を集め、消えた仲間たちの行動を少しずつつなぎ合わせていく。そうして浮かび上がってくるのは、彼らが死へと歩みを進めていく軌跡だった。

 

 私自身も登山を楽しみ、山が危険と隣り合わせであることは理解しているつもりだった。だが、本書を読んで、その認識がどこか甘かったことを思い知らされた。これから先、自分が仲間を見失う側になるのか、それとも自分自身が遭難する側になるのか——それはわからない。願わくば、どちらの立場にもならずに済みたい。

 しかし、彼らの足跡から学び、同じ悲劇を繰り返さないようにすることはできる。少なくとも、麓で待つ仲間に余計な心配をかけないようにしなければならない。そう思わされた一冊であった。

 

 ちなみに、作中の事故が起きた常念山脈は非常に人気の高いエリアで、夏には多くの登山者が訪れる。かくいう私も、何度となく歩いたルートが登場する。雪のない季節、天候さえ良ければ実に楽しい場所だ。なかでも燕岳(つばくろだけ)は、登山初心者が最初に目指す北アルプスの山としてよく知られている。大阪や東京では見ることのできない絶景が広がり、ほんとうに美しい。

 燕岳に行ったことがない人は人生を少し損している、とさえ私は思っている。

 だが、ひとたび天候が悪化すれば、その山は容赦なく登山者の命を奪う。そうした峻烈な自然の厳しさもまた、山の美しさを際立たせているのかもしれない。

tkj.jp

燕岳山頂より南方を望む、大天井岳が見える

 

異国のごはん

 ちょっと凹むことがあったのでつぶやいてみたら反響が大きかったのがこちらのツイート。

 ”ガチ中華にきたら客が日本米都是狗屎,都难吃(以下略)などと申しており、しばらくガチ中華を控えようと思うなどした”

 店内で日本人を見かけたことがないガチ中華でのことだ。中国人客が中国人の店員に、日本のコメの味について不満げに語っていた。その様子を聞いてモヤっとした勢いでツイートしてしまったところ、思いがけずバズった。コメの話題というのはいつの世もアツくなりやすい。

 とはいえ、この客の愚痴を責める気にはなれない。中国語での会話は、いわばオフレコのようなものだ。海外暮らしで溜まりがちな心の澱を吐き出す場として、愚痴は大事でもある。そもそも日本人が来ることのない店内で、日本での生活の不満を口にしても迷惑に思う客はいないはずだったろう。勝手にモヤっとしてツイートした私のほうが無作法だった、というのが正しい。

 ただ、彼の愚痴の内容には妙に覚えがあった。というのも、それは私が上海で暮らしていた頃に感じていたことと、ほとんど同じだったからだ。

白ごはんがおいしくない。口に合わない。
ニオイも変だし、食感もボソボソしていて、いったい何を食べているのかわからない――。

 今になって思えば、コメの味の問題というより、海外生活の不安や不満が「白ごはんへの文句」という形で噴き出していたのだと思う。慣れない生活のストレスは想像以上に大きい。でこぼこだらけの歩道、ほこりっぽい街並み。生まれ育った街との違いが、細かいことまでいちいち気になってくる。彼の愚痴を聞きながら、そんな自分のことを思い出していた。

 とはいえ、私の場合、上海では日本食にそれほど困らなかった。

 カレーのCoCo壱やトンカツの松のやが遠くない場所にあり、近くにはすき家もあった。そこのごはんは炊き加減も風味も日本のものに近く、食べると妙に気持ちが落ち着いた。結局のところ、求めていたのは白ごはんの「味」というより、心の拠り所としての白ごはんだったのかもしれない。

 やがて自分でごはんを炊くようになると、上海でも東北米(中国東北部、旧満州で作られる日本米に近い品種)が手に入りやすいことや、それが意外と食べやすいことも知った。生活に慣れてくると、心にも余裕が生まれる。見慣れない料理にも手を伸ばすようになり、日本食とは違うおいしさに気づくことも増えていった。お気に入りのチャーハンや、ハスの葉で包んで炊いたご飯(荷葉飯)など、もう一度食べたい料理も増えた。その頃には、白ごはんのまずさはそれほど気にならなくなっていた気がする。

 

 さて、日本米が口に合わないと嘆いていた彼はというと、北海道米も新潟米も、“越光”も、あれこれ試してみたらしい。それでもダメで、最後にこう結論づけていた。

   「タイ米こそ真のコメである」

 店員が炊き方を尋ねると、「同じように炊けばいい。香りが良くて、これこそ本当のゴハンだ」と熱弁している。

 

……それ、全然ダメじゃん、
日本米の良さを自分で台無しにしてるじゃん

 

 このツイートには、たくさんの反応をいただいた。
彼の発言をなじるものや、「真の日本米を知らないからだ」といったお決まりのコメントなど、反応はさまざまだった。

 本当は、この話をきっかけに「いろいろな価値観がある」ということを紹介したかったのだ。誰にとっても日本米が美味しいわけではないし、彼の憎まれ口も一時的なものかもしれない。外国人の日本への不満も、切り口を変えれば少し理解しやすくなレバいいとおもう。

 とはいえ、日本に住んでいながら日本への理解が浅いままだと、的外れな批判になってしまうこともある。擁護したかったのだが、どうにも締まりがつかない。……まあ、こういうどこか間の抜けた感じも、中国らしいと言えば中国らしいのだけれど。

 

ちなみに、今になって思い返すと、上海の安いコメはやっぱりまずかった。噂に聞く「クサいメシ」とはこれのことか、と妙に納得した覚えがある。

 上海でも収穫したてのコメはおいしいと聞くので、収穫後の管理や水加減、炊き方が雑だったのだろう。米粒の選別、十分な乾燥、低温での保管。日本米のおいしさの背景には、そうした手間の積み重ねがあるのだと思う。もちろん、中国にもきちんと管理されたおいしいコメはちゃんとある。上海暮らしが長くなって、おいしい白ごはんをたくさん見つけることになった。

 故郷では空気のように当たり前に存在しているものは、いったんそこを離れると途端に見つからなくなる。とはいえ、現地で懐かしい暮らしをできる範囲で再現してみる。そんな工夫こそが、海外生活を楽しむためのささやかなコツなのかもしれない。そしてまた、試行錯誤の過程で日本と中国のいいところにたくさん出会うのも、また海外暮らしの醍醐味なのかもしれない。故郷との違いをあげつらうのではなく、一呼吸を置いて、その背景を考える。そうして得られた気づきは、生活にいろどりを添えてくれることだろう。

 

この記事はChatGPTを活用しています。

行きつけのガチ中華が閉店する話

 去年、勤め先の近くで偶然見つけて以来、足繁く通う「ガチ中華」の店がある。中国人の夫妻が故郷の料理を出している小さな店で、「餃子の王将」のようないわゆる日本の中華とはまったく違う料理を提供している。そんな店が、突如閉店するという。

 店主夫妻はとても気さくな方々で、中国語で話しかけると、いろいろなことを話してくれた。故郷の話、料理の話。世間話の端々に垣間見える異国の生活に、いつも心が躍った。中国はとても広大で、彼らの暮らす土地は私にはまったく想像もつかなかった。気候も風土も、私があるきまわる”中国”とは大きく異なり、話を聞くたびに胸がわくわくした。

 先日、ふと店に立ち寄ったところ、店主から「店を閉めて帰国することになった」と告げられた。あまりに急な話で驚いたが、事情を聞くとビザの更新ができなかったという。まさか。

 昨年、経営ビザが厳格化されるというニュースが新聞を賑わせていた。外国人が日本の社会保障に“タダ乗り”しているという風潮が後押しし、法務省が省令改正を経て実施したものだった。
 その直後から、ツイッターなどでは「インド人のカレー屋が撤退することになるだろう」という噂が流れていた。正直、どこか他人事のように思っていた。まさか、こんな身近なところで影響が出るとは。

 一度出たビザが、犯罪やオーバーステイでもないのに取り消されるというのは珍しい。先例主義とよく言われる日本の行政にしては、ずいぶん思い切った措置に思える。ふとどき者を懲らしめようとしてルールを改めると、結果として弱い立場にいる、真面目に働いている人たちが損をする——そんな話は古今東西、枚挙にいとまがない。それでも、自分の生活圏のなかで、身近な人がそのあおりを受けて出国を余儀なくされるのを見ると、やはり切ないものがある。彼らはただ、真面目に働いていただけなのに。

 ビザの延長が不許可になると、30日以内の出国が求められる。悲嘆に暮れる暇もなく、身辺整理や閉業の手続きを進めなければならない。平静でいられるはずもないだろうに、それでも最後に私たちを店に招いてくださるという。彼らの気遣いにはただただ感謝するより他ない。中国人民の懐の深さや強さには目を瞠るよりほかない。

 ただただ彼らの平穏を願うとともに、もし叶うなら、またいつか、世界のどこかで彼らの料理に舌鼓を打てる日が来ることを祈るばかりである。

 

 

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書籍紹介『シリアの家族』-retusan's recommend

 なんとなく手に取ったこの本があまりにも深い衝撃を私にもたらしたこの作品について少し思ったことをまとめておきたい。

 

 中東の国・シリア。ダマスカス、アサド政権――。これまで断片的な知識しか持っていなかったが、「シリア」という国名に惹かれて本書を手に取った。世界史は高校で少しかじった程度で、日本にいると中東の人々の暮らしに直接触れる機会はほとんどない。どうしても断片的な情報や噂話を通してしか、彼らの生活を知ることができない。「シリアの家族」というタイトルから、その地に生きる人々の暮らしを知りたいという期待を込めて、本を開いた。

 本書の題名にもなっている「シリアの家族」とは、著者が現地で出会った一族であり、驚くべきことに、著者が結婚した青年の一家でもある。遠い異国の出来事でありながら、日本人の視点に根ざした家族観が通底しているためか、強いリアリティを伴って作品世界へと引き込まれていく。

 一方で、この一家を襲った惨事は、シリアという国においては決して珍しいものではなく、数ある悲劇の一つでもある。しかし、日本で暮らす私にとっては到底実感の及ばない、遠い出来事でもある。ニュースで見聞きする「中東情勢」と、作品の中で描かれる生々しい現実とのあいだにある大きな隔たりに、思わず驚かされる。当時のシリアでは秘密警察が暗躍し、多くの市民がどこかへ連れ去られていた。残された家族に光が当てられることは少ないが、著者の鮮やかな筆致によってその現実を突きつけられると、ただ呆然とするほかない。

 シリアではおよそ50年にわたりアサド政権による支配が続き、著者の家族もまた、平穏な生活を捨てて流浪の道を選ぶことになる。そして2024年末、アサド政権は崩壊し、同氏は亡命した。これによりシリア難民の帰国が始まり、著者の家族もまた、さまざまな葛藤を抱えながら生活の再建へと向かっていく。本書では、一族の流浪の始まりから終わりまでが、著者自身の体験をもとに、多角的に描かれている。

 本作には、歴史や習俗、現代政治といった教科書的な要素を、まるで歴史ドラマのように描く側面と、著者自身の身の回りで起きた日常を克明に記録する側面という、二つの顔がある。同時に、日本人の視点から見た中東・シリアの暮らしを、シリア人と日本人双方のまなざしで浮かび上がらせている点も印象的である。

 

 テーマの重厚さやノンフィクションとしての報道性はもちろんのこと、作品全体に漂う遠近感や陰影の豊かさが際立っており、深い感慨を覚えさせる一冊であった。

 

  おまけ

 執筆中に見つけた著者インタビューです。どちらかというと読了後にご覧になることをお勧めします。

lee.hpplus.jp

 

  おせっかい

 作品中に宗派に関する話題が注釈なしに出てくるので、シーア派とスンナ派を事前におさえておくと読みやすいと思われます。アサド氏はどちらでもないアラウィー派というマイノリティ出身だそうですが(私もアラウィー派については知りませんでした)

 

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書籍紹介『台湾漫遊鉄道の二人』-retusan's recommend

『台湾漫遊鉄道の二人』
軽い気持ちで手に取ったのに存外良かったのでおすすめ。
台湾人作家「楊双子」による作品で、1938年に台湾を訪問した作家「青山千鶴子」氏による旅行記、という体裁で書かれています。帯の「台湾グルメ×百合×鉄道旅」が気になって購入してみました。
主人公の青山千鶴子は20代の女流作家。作品が映画化されるほどの人気ぶりで、台湾に半年滞在して台湾各地で講演と執筆し、グルメを楽しむことに。現地の通訳「王千鶴」と歳も名前も近いことで意気投合し、二人で台湾をめぐる旅に出る……という作品です。

1938年の日本といえば日中戦争の翌年、国家総動員法が発令された年。当時は未婚の職業女性というだけで周囲がうるさい時代で、自由を求めて台湾を訪問した主人公。台湾を食べつくすぞ、とばかりに台湾を訪ねるも、現地人が提供する料理は「内地人」向けの料理ばかり。国威発揚のための小説まで依頼される始末。主人公は通訳の千鶴を連れ出して内地人が食べなれないご当地料理を食べに出かけます。

戦争の影や帝国主義の傲慢さといったきな臭い背景が見え隠れしつつも、千鶴子と千鶴の二人はおいしいご飯を追い求めて台湾を食べつくす物語です。前半はおいしいものを楽しむ主人公が楽しそうで台湾に行きたくなる、そんな作品です。

ちなみに、作中にも註がありますが、登場する観光地は現存しないものも多いですが、食べ物は今でも食べられるものばかりなので台湾を訪問する前に読むと楽しみが増えちゃいます。


この作品をお勧めしたいのはやまやまなのですが、これ以上ネタバレ抜きに言えることがないのでこの辺で。


日本語版は978-4-12-005652-9 中央公論新社 本体¥2000
原書は『臺灣漫遊錄』春山出版より978-986-98662-6-2 NT$380