『ゴミが作り出す社会 現代インドネシアの廃棄物処理の民族誌』という本を書店で見かけて読んでみた。
日本でもゴミ問題は常に燻っていて定期的に社会問題となってしまう。ゴミは我々が生活してる以上どうしても排出されるものであるが、かといってゴミ処理の過程からは目を背けがちである。いわゆるNIMBY(not in my back yard:ウチの裏庭ではやめてほしい)施設の代表とも言えるゴミ処理を、インドネシアのスラバヤで観察した記録が本書である。
序章ではゴミとは何か、について触れている。本書の指摘を受けて気づいたことだが、「ゴミ」というのは主観的な表現である。捨てるべきか再利用すべきかは、同じものであっても時と場合によって大きく運命が分かれる。価値がつくゴミは引き取る業者がいる。問題は処分に費用がかかるゴミをどうするか、である。また、ゴミ処理の歴史と社会における評価の変遷を扱っている。
一章以降ではゴミ処理の実態をいくつかの項目に分けて紹介している。一章ではごみ収集のあらましを、二章では今世紀初頭の「ゴミの洪水」を、三章では現在までのゴミ処理の変遷を、四章と五章では住民参加を取り上げている。
現代の日本に住んでいると、ゴミの焼却は当たり前のことであるが、世界ではゴミを焼却処分しているのはじつは少数派らしく、全てのゴミをそのまま埋め立てることが多いらしい。ゴミを埋めて数年放置しておくと発酵等でガスが発生し、そのガスが自然に燃えてだんだんゴミのかさが減っていくそう。東京では戦後の夢の島でこの処理が行われ、対岸に無数のハエが飛来するという事態に陥ったという。スラバヤでもガスが燃えて発生した煙が付近の住民の健康を害し、ゴミの搬入中止を訴える抗議活動によりごみ収集が停滞し、スラバヤ市内にゴミが滞留・腐敗する「ゴミの洪水」が発生し、市民生活に大きな影響がでた。
興味深いのは、これ以外にもゴミの焼却処分によって周辺住民への健康被害が発生したこともあり、スラバヤではゴミ焼却に対する忌避感が強いのだそうだ。現地ではゴミの水分量を調査し、スラバヤのゴミは焼却に向かないという「調査」を繰り返し、ゴミは燃やすべきでないという結論を受け継いでいるという。
ゴミの洪水以降、スラバヤ市は北九州市と提携してゴミ処理施設の導入を始めた。生ごみの堆肥化施設を設置し、市民へ家庭用のコンポストを普及させた。家庭用のコンポストは自治会単位での導入と普及が奏功し、現在でも使われている一方、生ごみの堆肥化施設はどうしてもゴミの分別に費用がかかり、商業化がうまくいかず日本の業者は撤退を余儀なくされた。
ゴミの埋立地では容量が逼迫していたが、こちらは「ガス化」という新たな技術を導入し、問題を解決したらしい。ゴミの焼却と言ってしまうと角が立つので言い換えただけな気がするけど、それはさておき。
インドネシアでは自治会のようなものが普及しており、スラバヤでも自治体ごとにゴミ減量に取り組んでいて、毎年コンテストを開催しているとのこと。地域住民単位で切磋琢磨してゴミの減量に取り組んでいるとのこと。コンポストの作り方に創意工夫を凝らし、おしゃれなコンポストを普及させているのは地元のおばちゃんたちの働きである。
読んでみて一番強く感じたのは、ゴミ処理のように全ての住民の協力が必要な問題は、結局人の輪を頼って解決していくんだなぁ、だった。
コンポストの仕様を例に挙げると、竹製のカゴを使うのは現地の人にとってみすぼらしく感じられるそうで、カラフルなプラスチック製のものが好まれるのだとか。ゴミの焼却処理の忌避もコンポストの素材も、地域住民に受け入れられやすい方法を採用する方が普及が容易になる。ゴミ処理はどうしても忌避感を覚えやすいので、「イケてる」「おしゃれだ」という印象をだいじにすると受け入れられやすい。
ゴミ処理はNIMBYなのでどうしても手間と費用から目を背けがちになる。スラバヤのゴミ処理においても、日本のように費用をかければ解決する問題がたくさんあるように思えた。とはいえ市からの支出が渋いこともあり、限られた予算でどうにかやりくりしている……そのやりくりの人間模様がこの本のメインテーマといえよう。全員が納得できる税金の配分は不可能なのでどうにか折り合いをつけるとしわ寄せがいく。スラバヤではゴミ処理に使われる税金は多くはないようで、住民の負担と努力で最適化を図っている奮闘の過程は、身の回りで思いだされるエピソードも多かったし、とても読み応えがあった。
『ゴミが作り出す社会 現代インドネシアの廃棄物処理の民族誌』吉田航太 著
東京大学出版会(2025) ISBN 978−4−13−036292−4
